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講演会 「女流画家川合小梅の世界」を開催しました

日時 2024年7月14日(日) 13:30~15:00

 場所 フォルテワジマ 6階 和歌山市地域フロンティアセンター C室

「講演会レポート(文 檀上智子)」 

新鮮な視点をもたらすパートナー教授の研究書

『KOUME’S  WORLD』

 〜小梅は終生、画業で家庭経営を支えようと最善を尽くした〜

〇アメリカのデューク大学で教壇に立つサイモン・パートナー教授の研究書『KOUME’S  WORLD』が昨年11月に発刊されたことを記念する講演会が、7月14日、和歌山市地域フロンティアセンターで開かれました。  参加した56人の小梅ファンは、メモをとりながら熱心に耳を傾け、パートナー教授の温厚な語り口と細部にわたるまで丁寧に研究された発表に、感銘を受けていました。講演会を主催した「小梅日記を楽しむ会」のメンバーは「小梅は終生、家庭経営のため画業で収入を得たいと願っていた」との分析を「とても新鮮だ。確かにそのような面も推測できる」と、興味深く捉えていました。

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〇講演の冒頭でパートナー教授は、関係者への感謝を話しました。研究のきっかけは、ドイツの大学の図書館で小梅日記の存在を知り、面白いと思ったこと。初めて和歌山を訪れたのは2017年4月で「小梅日記を楽しむ会」に温かく迎えられ縁を感じたことが研究の発端となり、2019年から1年間、京都の国際日本文化研究センターに在籍していた期間には会員として活動したことや、和歌山市民の皆さんからの支援が調査の助けになったと、発刊までの6年間を振り返りました。  経歴について、出身はイギリスで母国では英文学を専攻し卒業後、銀行やコンサルティング会社での勤務を経て、30歳の頃、アメリカのアラバマ州の田舎町で日本人である現在の妻に出会ったことから日本文化に興味を抱き始めたことを打ち明けました。さらに、33歳でコロンビア大学の博士課程に入学して日本の経済史学を専攻し、その後デューク大学で今日に至るまでの26年間、日本の歴史を教えており、妻との結婚生活は36年にのぼることを話しました。  研究者の使命について、著書は今回で4冊目であり、いずれも政治経済界の著名人ではなく市井の人々の人生に焦点を当てていると強調。歴史を作った人ではなく、小梅のように歴史を生きた人々が時代の動向をどのように経験したかを把握し、誰もが共感しやすい庶民の感覚や経済を知ることで、「先人と現代人のつながりを結ぶことができたら嬉しい」と熱を込めました。

〇今回の記念講演で取り上げるテーマについて、日記には黒船の到来、コレラの大流行、戊辰戦争、徳川政権の崩壊などさまざま重要なものがある中で、小梅の画家としての仕事に注目するとし、「第一に主婦であり、絵画は趣味であったと捉えられやすいがそれは間違いではないか」と切り出しました。その理由について、川合家は会社のように運営されており、主な収入は藩校の教師である夫から得ていたが、家族全員が家族の事業に貢献しなければならず、小梅は日頃から家族の経済的な繁栄と名声に尽力していたと強調。日記から、お金の管理、家の修繕、家事全般、食事を賄うための家庭菜園の管理、使用人の雇用などが仕事として確立されていたことが分かるが、「絵画を描くこともそのうちの一つとして捉えていたであろう」と論を展開しました。  さらに日記の内容について、紀州藩は経済難が常態化しており、夫が藩から受け取る給料はほんの一部で毎月現金不足であったことや、支出や贈り物の交換の記録がとても多いことを紹介。また、月に1〜2回は夫と同僚のための宴席を開くことで学者界に貢献しており、贈り物より頂き物の方が多かったが、小梅はそれを全て記録することで複雑な社会慣習のバランスを調整しようとしており、検討が必要な案件も記すなど、「家庭をまるで経済活動をする企業のように運営していたと捉えることもできるのではないか」と独自の視点を話しました。  さらに画業についても、安政6(1859)年3月7日正住寺で行われた宴席で、小梅が2〜3時間で11枚の絵を書いていることを例に検証。私見としながらも、中国から導入され、当時、学者間で人気のあった文人画のスタイルを小梅がとっていることは、学者間で絵の取り引きをする場面があったことの示唆ではないかと話しました。文人画は学者や芸術家のグループが楽しむ芸の合作で、メンバーが一緒に酒を飲み音楽を奏で、その瞬間に感じた喜びを反映させたものであることを解説し、このような機会に小梅の才能が認められることで川合家の文化的ステータスが向上し、また、贈った相手から受け取ったお返しが家庭経済に少しなりとも利益をもたらしたであろうと、推論を述べました。  パートナー教授は、小梅の絵画の中で自身が魅力を感じるものとして「三輪文行父母像」を挙げ、理想的なおじいさんとおばあさんの様子に平和と穏やかさが表現され、両親の愛と知恵に溢れた作品であると、自身の細やかな洞察力で、小梅が依頼に応えて制作した肖像画を紹介しました。  絵の報酬については、1860年の日記から分かることとして、鯛、タバコ、羊羹1本など、多くが品物だったことを紹介。また、依頼を受けて制作したロシアの日常生活が分かる『環海異聞』の写本は、小梅の多彩さと技術の高さがわかり、依頼の経緯や報酬については不明だが、川合家の文化的地位を高めることには役立ったと、画業の報酬が必ずしも金銭に限ったことではないと考えられる例も示しました。  時代が劇的に変化した明治初期について、夫が亡くなり小学校教師の息子の給料を主とする、毎月12円程度で5人が生活しなければならないという金銭的に厳しい晩年期を過ごしていた小梅が、ほとんど毎日絵を描いていたことを取り上げ、「晩年は隠居した母として楽しんで描いたという説があるが同意しない。明治時代はそれまで以上にお金のために描いたのではないか」と独自の視点を話しました。  その根拠として、一度に15枚ぐらいを仲介者に持たせている例があり、町の人向けの作品制作も拡大し、お店ののれん、襖絵、寺の天井画など、依頼に応じて描き、直接交渉し現金で支払ってもらっていた場合もあることや、押し絵(伝統的な手芸)の下絵のデザインもしていたことを挙げ、その収入は小梅自身と家族に不可欠だったと考えられると話しました。さらに、寒さに震えながら夜遅くまで働き、作品に満足できずイライラして破ったりして苦心をしても、結局のところ稼げたのは月にたった2、3回で、「当時の紡績工場の賃金と同じくらい」と、「高い賃金を要求できないことにしばしば不満を抱いていた」という、小梅の一面を紹介しました。  最後に、研究者が働く女性としての小梅に焦点を当てる際の認識として、江戸時代末期には紀州藩内で学者の妻として物質的な幸福を実現し夫のキャリアを支え一家の文化的な地位を高め、芸術を通じて家族の経済に貢献した、明治維新以降は、さらに主な収入源となった画業に熱心に取り組み、作品を収益化するため苦労したがなかなか思い通りにはいかなかった、と人生の概略を提示。さらに研究を進めていく上では、「学者社会に身を置き、終生、働く女性として最善を尽くしたと捉えるのが適当ではないか」と結論づけました。

小梅日記を楽しむ会

©2024 Small Plum Diary Enjoyment Society。Wix.com で作成されました。

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